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井上靖『敦煌』の魅力。

1 読書について

 今はマンガやアニメ、ゲーム、YouTube等の動画など、娯楽に事欠かない時代ではあるけれど、年を取るにつれて逆に読書の方が好きになった。
知識を効率的に吸収するには、マンガやアニメを見るよりも、小説版等を読書で速読した方が速いからである。

それに、年のせいなのか分からないのだけれど、もう新しいマンガやアニメを見ても、昔のように感情移入できない。
昔のものに比べれば、確かに画はきれいだし音楽はかっこいいし物語もおもしろいとは思うのだけれど・・・
ジャンプやマガジンの発売日を待ちきれなかったあの頃が、遠い昔のように感じる。

読書は時空を越えた人との出会いである。
読書自体が勉強にもなるので、中学校や高校ではわざわざ読書の時間を設けて、生徒に読書を半強制している学校もあるくらいだけれど、それくらいしないと読書しない生徒も多いと思うので、それはそれでよい試みだと個人的には思う。

2 『敦煌』

 先日、BSでNHKの深読み読書会という番組で、井上靖の『敦煌』について出演者たちが熱く語っていた。
『敦煌』は井上靖の作品の中で一番好きな小説で、若い頃に読んで非常に感銘を受けた記憶がある。
出演者たちはそれぞれ、この作品について自分の意見を語っていた。
それを聞いていたらもう一度読んでみたくなったので、本屋で買って読んでみた。

出演者たちは頭の良い人たちなので、非常におしゃれな意見や感想を述べていたけれど、そんなに難しく考えなくてもこの作品の魅力は伝わるのではないかと思う。
本の感想など人それぞれなので、つまらない本だったとしか思わない人も中にはいるだろう。
せっかく久しぶりに読み返したので、自分なりにこの作品について語ってみたい。

3 ラブロマンスなのか

 もちろん、ラブロマンスを描いた物語として楽しむこともできるのだろう。
しかし、ラブロマンスというよりも、物語の流れの中のいくつかの要所で主人公は何かに衝き動かされて行動していくのだけれど、ラブロマンスはその中の一つくらいだと個人的には思っている。

現実の世界でも、いくら恋愛が好きな人でも、恋愛のことだけ考えて生きている訳でもないだろう。
人は現実の世界でも、いろいろな経験をしていろいろな思いを抱えながら生きていて、時に自分でも思いがけない衝動から、普段とは違う行動をしてしまうことがあると思う。
そのように考えながら読んでみると、主人公の思考や行動を素直に受け取ることができる。

あるいは、僕自身の中にもともと、この主人公に共感できる何かがあるのかもしれない。
人は運命というべき時代の大きな流れに抗うことのできない存在ではあるけれど、個人的な衝動による行動が運命を切り開くこともあるのだと思う。

4 出世のための学問

 主人公は科挙に合格できるくらいの実力があったのだけれど、とんでもない失態によって不合格になってしまう。
科挙に合格すれば高級官僚としての立身出世が約束されていた訳で、一つの価値観から見れば、まさに人生を棒に振ってしまった訳である。
一つの価値観から見れば確かにそうなのだけれど、価値観は人それぞれ多様である。

役人になるために必要な高度な学問を習得して、その役人になるための試験で失敗して、主人公はそれまでの人生の目標、計画を突然失ってしまった。
思いがけず突然空っぽになってしまった主人公の中に、街の市場でのある事件に遭遇したことにより、新しくて異質な衝動が生じることになった。
西夏の女、西夏文字、西夏・・・役人になるための試験、試験のための学問のために今まで生きてきた主人公の人生が、ここから大きく転回することになる。

5 ラブロマンスと西夏文字と仏教

 あらすじを紹介するのが目的ではないので、途中の物語についての説明は省略する。
主人公は混乱の中で西夏の漢人部隊に編入されて、戦争の最中にラブロマンスみたいなのがあったけれど、部隊長に見込まれて西夏文字を学ぶために西夏の首都へ行くことになった。

主人公は西夏の首都で西夏文字を学び、まさに科挙失敗後に見出した、人生の新しい目的を果たすことができた。
ここで祖国に帰ってもよかったのだけれど、部隊長に対する恩義や恋愛相手の娘のことを思い、再び西へ旅立つことになった。

いろいろあって娘は死んでしまったけれど、主人公は部隊長の出世に伴ってその参謀の役割を担うようになった。
そして、いろいろあって主人公は仏教に興味を持つようになる。
ここで主人公と仏教を結びつけるのが強引な展開だと批判する人もいるけれど、僕は自然な流れだと思った。

近しい人を亡くした人が宗教に傾倒することはよくあることである。
そして、仏教は当時の西域において信仰、研究されていた宗教の一つであり、主人公は科挙を目指していたほどの知識人であった。
仏教を理解し敬う素養は十分にあった。

6 学問の真価を見出す

 いよいよクライマックスである。
西夏侵攻により沙州(敦煌)滅亡は目前であった。
主人公は、街が滅亡目前なのに経典を整理している若い僧の言葉に胸を打たれる。

「自分たちの読んだ経巻の数は知れたものだ。読まないものがいっぱいある。まだ開けてさえ見ない経巻は無数にある。―俺たちは読みたいのだ」
(215ページ)

主人公は、人生を棒に振るような失敗により、それまで執心してきた出世のための学問を離れ、生きるために必死で戦ってきた。
抗いがたい運命の大河の中でも、人生の要所では自分の中に生じた衝動に向き合い、果敢に行動して運命を切り開いてきた。

そして今、仏教やその真理を命がけで学ぶ若い僧たちに共鳴し、自らの立身出世、お金や地位や名誉を求める訳でもなく、経典の保存に奔走することを決意する。
おそらく主人公は、これら文書は保存する価値があるものだと、純粋に直感的に理解したのだろう。

7 敦煌文書

 これらの文書(いわゆる敦煌文献)が日の目を見るのは、1900年に発見されてからであった。

井上靖はこの敦煌文献の発見に着想を得て、想像を膨らませて壮大なフィクション、小説『敦煌』を書きあげた。
受験に失敗したり、日中戦争に出征したり、いろいろな挫折や苦労を経験してきた井上靖にしか書けない感動的な物語である。

この物語はほとんど著者による創作ではあるが、一片の重要な真理を今も我々に問いかけていると僕は思う。
あなたが執心しているその試験、勉強、学問、研究は、何のためですか、誰のためですか?
人生を変えてしまうほどの出会い、情熱、衝動に、あなたは心を揺さぶられた経験がありますか?

学問の真価は、好奇心という人間の本能に根差すものである。
往々にして、こういう真理が単純で美しいのは、決して偶然ではないのだろう。

自分たちの学んだことは知れたものだ。知らないことがまだいっぱいある。まだ開けてさえ見ない書物は無数にある。―私たちは知りたいのだ・・・

この記事を英語で読む。

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