令和2年度第2回高認国語問5【古文】
1 原文
その中に大天狗と覚しくて、鼻もさして長からず、羽翼も甚だ見れず、衣冠正しく座上にありて、謂ひて曰はく。
各々論ずる所みな理なきにあらず。
古は情篤く、志親切にして、事を務むること健やかにして、屈することなく、怠ることなし。
師の伝ふる所を信じて昼夜心に工夫し、事にこころみ、うたがはしきことをば友に討ね、修行熟して吾とその理を悟る。
ゆゑに内に徹すること深し。師は始め、事を伝へてその含むところを語らず、自ら開くるを待つのみ。
これを引而不発といふ。吝みて語らざるにはあらず。この間に心を用ひて修行熟せんことを欲するのみ。
弟子心を尽くして工夫し、自得する所あれば猶ほ往きて師に問ふ。師その心に叶ふときはこれを許すのみ。
師の方より発して教ふることなし。唯芸術のみにあらず。
孔子曰はく、一隅を挙げて三の隅を以て反さふせざる者には復せずと。
これ古人の教法なり。故に学術芸術ともに慥かにして篤し。
今人情薄く、志切ならず。
少壮より労を厭ひ、簡を好み、小利を見て速やかにならんことを欲するの所へ、古法の如く教へば、修行するものあるべからず。
今は師の方より途を啓きて、初学の者にもその極則を説き聞かせ、その帰着する所をしめし、猶ほ手を執つてこれをひくのみ。
かくのごとくしてすら猶ほ退屈して止む者多し。
次第に理は高上に成つて古人を足らずとし、修行は薄く居ながら、天へも上る工夫をするのみ。
これまた時の勢ひなり。人を導くは馬を御するがごとし。
その邪にゆくの気を抑へて、そのみづからすすむの正気を助くるのみ。また強ふることなし。
(『天狗芸術論』より)
2 現代語訳
その中に大天狗と思われるものがいた。鼻もそんなに長くなく、羽翼もあまり見えない。衣冠を正して座っていたが、次のように言った。
各々論じる所はすべて、理がないでもない。
昔は情が厚く、志も厚かった。技に務めるのも健やかで、屈することなく、怠ることもなかった。
師の伝える所を信じて、昼夜心から工夫して技を試みた。疑問があれば友に尋ね、修行が熟すれば自分でその理を悟った。
故に内に徹することが深かった。師は始め、技を伝えてその含むところを語らず、自ら開くのを待つのみである。
これを引而不発(引いて発たず)と言う。惜しんで語らないのではない。この間に心を用いて修行が熟することを欲するのみである。
弟子が心を尽くして工夫し、自得する所あれば師に問う。師はその心に叶うときは、これを許すのみである。
師の方から発して教えることはない。ただ芸術だけのことではない。
孔子は言った。「四角なものを教えるのに、一隅を持ち上げてみせると他の三隅に反応を示すようでなければ、重ねて教えることはしない。」
これは昔の人の教法である。故に学術、芸術ともに確かで奥が深かった。
今は人情が薄く、志も切実ではない。
若いときより苦労を嫌い、簡単であることを好む。小利を見て早く成果をあげたいと思う所へ、昔の方法のように教えれば、修行する者はいなくなってしまう。
今は師の方から道を開いて、初学者に対して核心的な原理を説明する。最終的な目標を提示して、手取り足取り指導するのみである。
このようにしても、やはり退屈に感じてやめてしまう者が多い。
次第に理屈ばかりが高等になって、昔の人は言葉が足りないとし、修行はあまりしないのに、天へ上る工夫をするのみである。
これもまた時勢である。人を導くのは馬を御するようなものである。
その邪に行く気を抑えて、その自ら進む正気を助けるのみである。無理に押しつけることはしない。