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平成28年度第1回高認国語問3【古文】

1 原文

 友人曰く、我が親しき者隣村へ夜話に往きたる帰るさ、途の傍らに茶釜ありしが、頃しも夏の事なりしゆゑ、農業の人の置き忘れたるならん、さるにても腹悪しきものは拾ひ隠さん、持ち帰りて主を尋ねばやと釜を手にさげて二町ばかりあゆみしにしきりに重くなり、釜の内に声ありて我をいづくへ連れ行くぞといふに胆を消し釜をすてて逃げさりしに、狐前にはしり草の中へはしり入りしといへり。
こはかれが一時の戯れなるべし、かかる妖魅の術はありながら人に欺かれて捕らへらるるは如何。余答へていふ、鉄砲を以てするは論なし、香餌を以てするは、かれ人の欺くを知れども欲を捨てて慎む事あたはず、それとは知りながらこれを食らひて反つて人をあざむかんとして捕らへらるるならんか。これ邪智ふかきゆゑなり。
豈狐のみならんや、人も又是に似たり。邪智あるものは悪事とは知りながらかく為さば人は知るまじと己が邪智をたのみ、終には身を亡ぼすにいたる。淫欲も財欲も欲はいづれも身を亡ぼすの香餌なり。至善人は路に千金を視、室に美人と対すれども心妄りに動かざるは、止まることを知りて定まる事あるゆゑなり。
かかる人は胸に明らかなる鏡ありて、善悪を照らし視てよきあしきを知りて其の独りを慎む、之を明徳の鏡といふ。此の鏡は天道さまより誰にも誰にも与へおかるれども磨かざればてらさずと、われ若かりし時ある経学者の教へに聞きしと、狐の話につけ大学の蹄にかけて風諫せしは、問ひし人弱年にてしかも身持ちのくずれかかりし者なればなりき。ここには無用の長舌なれど、おもひいだししにまかせてしるせり。
(『北越雪譜』より)

2 現代語訳

 友人の話だが、私が親しくしている者が隣の村へ夜話に行った帰り道、路傍に茶釜があったのだが、時季が夏であったので、農作業をする人の置き忘れたものであろう、そうは言っても腹黒い者が拾って隠してしまうだろう、持ち帰って持ち主を探そうと釜を手に提げて二町ほど歩くとどんどん重くなり、釜の中から声がして、私をどこへ連れ行くと言うので胆をつぶし、釜を捨てて逃げ去ったところ、狐が前を走り、草の中へ走り入っていったということだ。
この話は狐による一時の戯れであろうが、かかる妖術が使えるのに人に欺かれて捕まえられるのはどうしてだろうか。私は答えて言ったのだが、鉄砲を使う場合は論じるまでもなく、おいしい餌を使う場合、狐は人を欺く方法を知っているけれども欲を捨てて慎むことができず、それと知っているのにこれを食らって、反対に人を欺こうとして捕まえられてしまうのではないか。これは邪智が深いためである。
狐だけではない、人もまたこれに似ている。邪智ある者は悪事と知りながらこれを行い、人に知られることはないだろうと己の邪智を頼みに、最終的には身を亡ぼすことになる。淫欲も財欲も、欲はどれも身を亡ぼすおいしい餌である。善人は道で大金を見つけたり、家で美人と会ったりしても心が妄りに動くことはないのは、止まることを知り、心に定まる事があるためである。
このような人は心に澄んだ鏡を持ち、善悪を照らし見て、良いこと悪いことを知り、独りでいるときも慎むことができる。これを明徳の鏡という。この鏡は天地を支配する神様からどんな者にも与えられ、どんな者の中にもあるけれど、磨かなければ照らすことはないと、私が若かった頃、ある経学者の教えとして聞いたのだが、狐の話にかこつけて儒教の経書の一つ大学をうまく利用して、遠回しにそれとなく忠告したのは、質問した人が若く、しかも身を持ち崩しかけていた者だったからである。ここでは無用の長話になったけれど、思い出したままに記述してみた。

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