重力に魂を縛られている人々。
1 親の価値観
この記事のタイトルは、分かる人には分かると思うけれど、言わずと知れたガンダムにおける名言である。アースノイドが重力に魂を引かれているように、多くの人々が親の価値観という重力に引かれている。
子どもの頃は親に認められたいので親の言うことに素直に従ったり、あるいは少し成長すると逆に反発したり、なんだかんだ言いながら一緒に生活していると、知らないうちに親の価値観がコピーされることになる。
・自由に生きろと言われても。:https://tanakah17191928.blogspot.com/2018/10/blog-post_21.html
2 重力を振り切るのに必要な速度
重力を振り切るのに必要な速度は計算で求めることができるけれど、親の価値観から脱する時期は人それぞれだと思う。大学進学、一人暮らし、恋人ができたとき、就職、結婚、子どもができたとき、親が死んだとき・・・
僕は父が死んだときにようやく、自分の価値観が父からコピーしたものだと自覚することができた。
人によっては、自身が死ぬまでそのことに気付かない人もいるのではないだろうか。
別に親の価値観に従うことが悪いとか言いたい訳ではないけれど、自分の価値観には親の価値観からコピーした部分があることを自覚すると、生きるのが少し楽になる場合がある。
3 親孝行は誰のため?
僕がこの記事を書こうと思ったのは、随分前に読んで心に引っかかっていた下記の記事を思い出したからである。・「秀才で東京に行った兄」と「ロクに勉強せず地元に残った弟」 親孝行はどっち?(マネーポストWEB)
「孝行のしたい時分に親はなし」とは有名なことわざだけれど、親孝行は誰のためにするものなのだろうか。
文字通り親のためなのだろうか、それとも親孝行をしたいという気持ちを充足するために、すなわち自分のためにするのだろうか。
この問題は深く考えると哲学的なテーマになるのかもしれないけれど、今回は哲学的な論考のための記事ではないので、これについてはこれ以上掘り下げない。
4 移動を好む人、あまり移動しない人
人間という種を進化論的に分析すると、好奇心が非常に重要だったと言われているけれど、その程度は人それぞれだと思う。人それぞれ個性があって、性格が違っていて、我々はそのことをよく知っている。
都会と田舎を比較するだけでは、あまりおもしろい話にはならないと思う。
地元での生活に不満がなく、地元で働き生活して、親との交流にも満足しているなら、何の問題もないだろう。
では逆に、進学校で勉強し学業のために遠くの大学へ進学までした人が、「何者かになりたい」という夢や希望を20代や30代で、早々にあきらめることができるのだろうか。
あるいは、あきらめることは正しいことなのだろうか。
5 今もなお親に褒められたいという気持ち
親の価値観を脱する時期は人それぞれなのだろうけれど、親の価値観を脱することができたとしてもなお、親に褒められたいという気持ちは親が死ぬまで消すことができないのかもしれない。結婚しようがしまいが、子どもがいようがいまいが、中年のおっさんになってしまえば最早どうでもいいことである。
早くに結婚した人なら子どもはすでに独立し、盆暮れ正月にしか帰って来ないかもしれない。
子どもや孫の活躍という自慢話、思い出を胸に、田舎では今日も老人たちが順番に歯が抜けるように死んでいく(田舎では防災行政無線で葬儀のお知らせをする)。
「秀才で東京に行った兄」は、田舎の人間がうらやむような東京での夢のような生活を手に入れた後もなお、親に褒められたいという気持ちから自由になれないでいるのだろう。