令和7年度第1回高認国語問4【古文】
1 原文
江尻の浦を過ぐれば、青苔石に生ひ、黒布磯による。南は沖の海森々と波をわかで、孤帆天にとび、北は茂松鬱々と枝を垂れて、一道つらをなす。
漁夫が網を引く、身を助けんとして身を労れしめ、游魚の釣をのむ、命を惜しみて命を滅ぼす。
人、幾ばくの利をか得たる、魚、幾ばくの餌をか求むるや。
世を渡る思、命をたばふ志、彼も此も共に同じ。
是のみかは、山にあせかく樵夫は、北風を負ひて晩に帰る、野にあしなへぐ商客は、白露を払ひて暁に出づ。
面々の業はまちまちなりと云へども、各々の苦は、これ皆渡世の一事なり。
人ごとに趍る心はかはれども世をすぐる道はひとつなりけり
この浦を遥かに見わたして行けば、海松は浪の上に根を離れたる草、海月は潮の上に水に移る影、ともにこれ浮生を論じて人をいましめたり。
波の上にただよふ海の月も又うかれ行くとぞ我をみるらん
清見が関を見れば、西南は、天と海と高低一つに眼を迷はし、北東は、山と磯と嶮難同じく足をつまづく。
磐の下には浪の花、風に開き春の定めなり、岸のうへには松の色、翠を含みて秋をおそれず。
浮天の浪は雲を汀にて、月のみ舟、夜出でて漕ぎ、沈陸の磯は磐を路にて、風の便脚、朝に過ぐ。
名を得たる所、必ずしも興を得ず、耳に耽る処、必ずしも目に耽らず。耳目の感二つながら従したるはこの浦にあり。
波に洗ひてぬれぬれ行けば、濁る心も今ここに澄めり。宜なるかな、此処を清見と名付けたる。
関屋に跡をとへば、松風空しく答ふ。岸脚に苔を尋ぬれば、橦花変じて石あり。
関屋の辺に布たたみと云ふ処あり。昔、関守の布をとりおきたるが、積りて石に成りたると云へり。
吹きよせよ清見浦風わすれ貝ひろふなごりの名にしおはめや
語らばや今日みるばかり清見潟おぼえし袖にかかる涙は
(『海道記』より)
2 現代語訳
江尻の浦(駿河国の宿駅「江尻」の南方の海岸)を過ぎると、青い苔が石に生え、黒い海藻が磯に寄せている。南は沖の海が森々と波の見分けもつかないが、一そうの舟が空に浮かぶように走り、北は生い茂った松が鬱々と枝を垂らし、一本道のように連なっている。
漁師が網を引くのは、生活のために身体を労し、水中を泳いでいる魚が針を飲み込むのは、命を惜しんで命を落とすものである。
人は、どれほどの利益を得たのでしょうか、魚は、どれほどの餌を求めたのでしょうか。
世を渡る思い、命を長らえようとする志は、人も魚もともに同じである。
これだけではなく、山で汗をかくきこりは、北風を負って晩に帰り、野を行き来して足を労する商人は、白露を払って暁に出かける。
それぞれの職業はまちまちと言えども、各々の苦しみは皆、渡世の一事である。
人それぞれに走る心は違っていても、世を渡っていく道は皆、一つなのだ。
この浦を遥かに見渡して行くと、海松布(海中の岩に生える海藻)は波の上で根を離れて漂う草であり、海月は潮の上で水に映る影のようなものであり、これらはともにその姿によって、頼りない人生のはかなさを人に教え諭しているようだ。
波の上に漂っている海月も、私のことを、浮かれ歩いていると思っていることだろう。
清見が関(駿河国の歌枕。古く関所があった)を見ると、西南は、空と海が一つになり高低の区別もつかなくて眼を迷わせ、北東は、山と磯が切り立って険しく、つまづきそうになる。
岩の下では波の花が風に開いて春のような景色であり、岸の上では松の色が緑を含んで秋を恐れることもない。
空に浮かぶ波は雲を水際として、月の舟が夜に漕ぎ出して、陸の磯は岩を道として、風の旅人の足が朝に過ぎていく。
有名な場所が、必ずしも趣深いとは限らず、噂に聞くような場所が、必ずしも素晴らしい風景とは限らない。耳で聞く評判と目で見る感動の二つが一致するのが、この浦なのである。
波に洗われ濡らしながら歩いていくと、濁っていた心が今ここで澄み渡った。なるほど、ここを清見と名付けたのも納得である。
関所の跡を訪ねれば、松風が空しく応えるばかり。岸辺の苔を見れば、橦花は変わり果てて石があるばかり。
関所の辺りに布たたみという場所がある。昔、関守が没収した布を置いておいたものが、積み重なって石になったと言われる。
吹きよせよ、清見の浦風よ。忘れ貝を拾う名残を、その名の通り忘れさせてくれるだろうか。
語り合いたいものだ。今日見たこの清見潟の素晴らしさを。かつて想像していた通りの美しさに、感動で袖を濡らしている涙のことを。
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