大連帰りの男。
1 大連市
彼は大学卒業後に就職した会社を辞め、中国に留学していた。年齢は20代半ば、海外への憧れを胸に大連市にやって来た。
初めての海外である。
見るもの聞くものすべてが新鮮で、毎日が新しい発見と経験の連続だった。
中国語を勉強するための1年間の留学だったので、学校ではいろいろな国からの同級生と一緒に、中国語を基本から勉強することができた。
お店や屋台で買い食いしたり、スーパーで買い物したり、彼は中国生活を満喫していた。
しかし、彼がおかしくなってしまったのは、それから数か月経ってからであった。
2 幻聴と妄想
精神病になった彼は、幻聴とそれによって構築されてしまう妄想のため、ひどく混乱していた。幻聴は脳が勝手に作り出すものだけれど、それを実際に聞こえてくる音や会話と区別することは不可能である。
そして、そういう幻聴が、実際に聞こえてくる音や会話と完全に混同してしまうのである。
ドアの外から同級生の会話が聞こえてきたとする。
その実際に聞こえてくる会話に混じって、幻聴が聞こえてくるのである。
そして、幻聴によって与えられるおかしな情報を整理するために、普通は考えないようなおかしな妄想を構築してしまう。
3 頭の中だけで起こった『007』
例えば、「彼は誰かに狙われている」「彼の周囲で怪しい工作員たちが何か活動している」というような、おかしな情報が頭脳に入力されたとする。すると、それに対して彼は、もしそれが本当でも生き残れるよう「合理的」に考え、行動してしまうことになる。
こうなると自然に治癒することは難しい。
彼は命を狙われていると信じ込んでいるので、睡眠もろくにとれないのだ。
彼の妄想はどんどんおかしくなっていって、最終的には彼のせいで数名の工作員間で争いが起こり、彼が逃げるように帰国したためその影響で何人かが命を落としたというような荒唐無稽なストーリーになってしまった。
もちろん、それは彼の頭の中だけで起こった事件である。
4 妄想から現実の世界へ
実際には何が起きていたのかと言えば、実は何も起こっていない。病気のせいで幻聴、妄想と現実の区別がつかなくなって、急に部屋に閉じこもってろくに会話もできなくなった留学生が、彼の異変に気付いて心配した同級生や学校の先生方の助けを借りながら、何とか無事に帰国して事なきを得たというよくある話。
つまり、海外へ行ったタイミングで精神病を発症してしまったけれど運よく無事帰国できたというだけの、時々見かけるありふれた話である。
ただ、当人にとっては、人生に一度あるかないかの一大事である。
実を言えば、後から冷静に振り返って分かったことなのだけれど、中国に行く直前からたまに幻聴が聞こえていて、中国に行って語学学習で脳をフル回転させたタイミングで、スイッチが入ったように本格的に幻聴が聞こえるようになったようである。
5 帰国後
この種の精神病は、本人に病識があるかないかが重要である。本人に病識がなければ、きちんと治療することは非常に困難である。
病院で処方された薬のおかげで幻聴が聞こえなくなっても、ほとんどすべての妄想が幻聴によるものであったと認識できるようになるまでには、それなりの時間を要した。
しかし、彼が比較的早くあれらは幻聴だったに違いないと思えるようになったのには、それなりの理由があった。
彼は中国にいた。
しかし、周囲に日本人がいない状況で聞こえてくる幻聴のほとんどすべてが、日本語だったのである。
6 最後に
精神病は、数パーセントという結構な割合で誰もがなり得る病気である。最近は薬や治療法が進歩したおかげで、8割は回復して多くの人々が社会復帰して普通に生活している。
精神病の原因は人それぞれだけれど、過度のストレスや睡眠不足で簡単に壊れてしまう程度に、人間の脳はもともと案外繊細なものなのだと思う。
若者の死因のトップは自殺だけれど、何か悩みを抱えてうつ状態になってしまうのも、精神疾患の一種だろう。
そう考えれば、多くの人々が精神疾患によって死んでいると言うこともできるのではないだろうか。
今精神疾患で苦しんでいる人は、どうか治療に専念してほしい。
身体の傷と違い精神の傷は見えないけれど、一歩間違えれば死に至る、社会復帰できれば上等、それはそれくらい深刻な病である。
今回の話、大して珍しくもないとは思うけれど、何かの参考になれば幸いである。