不登校はもはや「問題」ですらない。
1 不登校
不登校はもはや、単に「学校に行っていない」という一種の事実、状態を表すだけの言葉に変容したようである。すなわち、もう少し大仰に言えば、不登校は一つの選択肢、オルタナティブに過ぎない。
2 文部科学省の通知
「不登校児童生徒への支援は、「学校に登校する」という結果のみを目標にするのではなく、児童生徒が自らの進路を主体的に捉えて、社会的に自立することを目指す必要があること。また、児童生徒によっては、不登校の時期が休養や自分を見つめ直す等の積極的な意味を持つことがある一方で、学業の遅れや進路選択上の不利益や社会的自立へのリスクが存在することに留意すること。」(「不登校児童生徒への支援の在り方について(通知)」令和元年10月25日より)イケハヤ氏がYouTubeでいいこと言ってます。
・【新常識】「不登校」はこどもの権利。学校に無理やり戻すのはNG!(YouTube)
・AI時代到来!あるべき「こどもの教育」を本気で考えてみた。(YouTube)
3 他人と過去は変えられない
学校だろうが塾だろうが、子どもだろうが大人だろうが、成長するために必要なものは変わらない。自己革新は文字通り、自分にしかできない。他人は触媒に過ぎない。
触媒の良し悪しはあるかもしれないけれど。
「ウソつきは、コーチャブルではない。そういう輩は、そのうち自分の言葉を信じはじめる。自分のウソに合わせて真実を曲げるから、余計にたちが悪い。」(世界一のコーチですら「素直じゃない人は放っておけばいい」と思っていた(Books&Apps))
一見手厳しい意見だけれど、他人と過去は変えられないという当たり前のことを言っているのだと思う。
変えられるのは自分と未来だけである。(器は大きくし、分は自在に伸縮させたい。)
4 自分と未来は変えられる
逆から言えば、時間が経てばその他人も、自分の力で変わる可能性は十分ある。人は変わるものである。
講師はたまたま、そのタイミングに出会えるか出会えないか、ただそれだけの話だと思う。
それでは、コーチや講師にできることは何もないのだろうか?
本人あるいは家族が諦めていない限り、講師はその時が来るのをじっと待つしかない。
僕にとってはある種の信念となっている、相手が子どもなら。
相手が大人なら、躊躇なくスルーできるんだけどね、時間の無駄だから。
みんな大人になったら、いろんなこと適当にスルーして、生きていくしかないんですよ・・・
